アラサー女が人生について考えるブログ

アラサー女アオイケの、これまでと今とこれから

アラサー娘とアラ還母のこれからについて考える

アオイケです。

 

 

このエントリーで触れたように、私の母方の祖母が年明けに亡くなった。祖母の死は私にとって、今まで気にも留めなかった沢山の事柄について考えるきっかけをくれた。その中でも、これからの行動、選択、そう言ったものに特に影響を与えるであろうものの一つに、「いつかくる母の死」がある。今回のエントリーでは、母の死を意識した上で、アラサー娘とアラ還母のこれからについて考えてみたいと思う。

 

前提として、私は母のことを好いている。関係性も良好である。「毒親」というワードが登場して久しいが、そのある種センセーショナルな響きから、近年母と娘の関係性は基本的に悪いものというスタンスの記事等が多いように思う。しかし今回のエントリーは、純粋に子供として、愛する母への想いを綴ったものであることをご理解頂きたい。

 

母に幸せになって欲しい

母は幸せなのだろうか。

私の眼に映る母は、あまり幸せそうでは無い。世間一般の評価に照らし合わせれば、「子供3人を育て上げ、夫はある程度の地位まで昇進し、何不自由なく生活出来る蓄えと持ち家がある」という状況は、とても幸せなことだと思う。なのに、母は幸せそうでは無いのは何故なのだろうか。満たされない何かを常に抱えているように見える母。その「何か」を娘なりに考え、私が出来ることは限られているかもしれないけれど、少しでも母を幸せに、いや、楽に生きることが出来るようにしてあげたい。母と言えど所詮他人。他人が他人を幸せにしたいなど、烏滸がましい事だとは思うが、なんとかしてあげたいのだ。このままでは、母は幸せでは無いまま死んでしまうかもしれない。そんなことは、私が嫌なのだ。

 

母は、とても真っ直ぐな人だ。娘の私が言うのも何だが、今の時代では珍しいほどに真っ直ぐであり、正義感が強い。そんな母の真面目さのおかげで、私は何とか真っ当…(おそらく)に育ったのだが、反面それが母を苦しめているように思える。自分に厳しい分、それを他人にも要求する。自分の価値観から外れた行動を取る人間を、許すことが出来ないのだ。私がこんなに苦労して頑張ってきたのだから、あなたもそうあるべき。それが行き過ぎると、自分の思う「正解の行動」を取らない人間全てに苛立ちを覚えるようになってしまう。幸いなことに、母はそれをあまり私たち子供には向けなかったが、父や姑、小姑にそれは全力で向けられている。しかし、当然のことながら、そこにヒトが100人居れば、100通りの価値観が存在し、その価値観が完全に一致することなどあり得ない。それが分かっていれば、およそ自分の価値観通りに他人が動くことなどあり得ないと解るし、苛々することもない。

母を日々の苛々から救う為には、上で述べてきた「自分と他人の価値観が違うのは当然で、自分が思う通りに他人が動くなどあり得ない」という認識をしっかり持てるかがキーになるのでは、と考えている。

しかし、私は心理学の専門家でも無ければ勉強をしたことも無いから、こういった「認知の歪み」の矯正を、他人がどう働きかければ適切に行われるのかが分からないのだ。

これは、私の今後の課題である。母を救う為に、もっと知識をつけたいと思う。

 

親孝行とは何なのか

上で述べてきたように、私は母に幸せな人生だった、と思いながら最期を迎えて貰いたい。それが私にとっての親孝行である。と言えば聞こえは良いが、所詮親孝行は自己満足に過ぎないとも思っている。人が死ぬ時、後悔が全く無いなどということがあるのだろうか。大抵の人は、ああすれば良かった、こうすれば良かった、もっと会いに行けば良かった、もっと気持ちを伝えれば良かった、そんな風にに思うだろう。そういう後悔を少しでも「自分が」したく無いが為に、親孝行を使おうとしているようにも思う。

それでも、私はこれからあと何年、何十年一緒に居られるかわからないけれど、母が幸せだと思える期間を少しでも長くしてあげたい。だってそうしないと、私は母の死を受け止められる気がしないのだ。そしてこれは、私のこれからの人生をかけたビッグプロジェクトだと思っている。

 

私がこんなことを考えていると知ったら、母は余計なお世話だと憤慨しそうではあるが。

 

以上。