アラサー女が人生について考えるブログ

アラサー女アオイケの、これまでと今とこれから

「良い死に方」について考える

アオイケです。

 

2019年1月某日、三が日が明けてすぐのこと。

年末から危篤状態にあった母方の祖母が亡くなった。

 

アラサーにして初めて直面した、肉親の死だった。

 

「良い死に方」ってなんだろう?

年末大掃除を頑張ったご褒美にスシローに行こうぜ!と夫と話していた夜。

母から電話が入った。

12月頭から入院していた祖母の容態が急変し、昏睡状態にあるということ。今すぐ亡くなるような血圧では無いが、意識はもう戻らないこと。

そんなことを話してくれた。

それなのに、幸か不幸か今まで人の死に直面したことの無かった私は、まだ祖母の死はどこか遠い出来事のような感覚でいた。

その後は予定通り、スシローでたらふく寿司を食べた。

しかし、年越しを目前にした31日の午後、母と共に祖母の入院する病院へ見舞いに行き、凄まじいショックを受けたのだ。

何もない部屋、くすんだ壁紙、簡素なパイプベッド。

心が寒くなるような殺風景な空間に、祖母は横たわっていた。

目が半開きなのは、閉じる事が出来ないからだと言う。

大きく上下する胸と顎が、確かにまだ祖母が生きていることを伝えてくれたのだけど、それと同時にもう二度と祖母は目を覚まさないのだ、と言うことを実感した。

呆然とする私の横で、母は祖母の額を撫でながら、静かに泣きながら、こう言った。

 

「こんな寂しいところで、お母さんの人生が終わるなんて、耐えられない。お家で看取ってあげたい」

 

私も、こんなに寂しいところで一人過ごしているおばあちゃんのことを思うと、耐えられないほど苦しかった。しかし、「家での看取り」は現実的では無いと思う自分もいた。

 

本当に良い死に方って、なんだろう?

 

自宅で看取ることは容易では無い

私の母は、嫁に出ていて祖母とは別居だった。家で看取るのか病院にお世話になるのか、そういったことの選択権は同居の親族にあり(そもそも祖母は要介護であったから、介護をしてきた同居親族こそが決めるべきなのだろう)、母がどれだけ「こうしたい」という思いがあっても、それを実現することは容易では無いように思えた。

 

子や孫に囲まれながら、住み慣れた自宅で最期を迎える。

これ以上幸せな最期は確かに無いだろう。

 

しかし、自宅にいつ亡くなるか分からない人間がいるという状況は、果たして私だったら受け入れられるのだろうか?

その前に、昏睡状態の何も食べられない人間が、点滴も何も無い状態で自宅に横たわっていたら、果たしてその状態を受け入れられるのだろうか?

 

看取り側の負担を考えると、とてもそれを祖母と同居の家族に強いることは出来ないと思った。

極論、この土壇場での「こんな寂しい病室で亡くなるなんて可哀想!自宅で看取るべき!」という考えは、傍観者のエゴ以外の何者でもないとさえ思った。

だって、本当に強く自宅での看取りを希望するなら、当事者になって事前に準備することはいくらでも出来たのだから。

 

死についての備え

結局、祖母はそのままの病室で、一人で亡くなった。

それでも、棺に入って綺麗にお化粧してもらった祖母は、笑っているように思えた。

祖父と子供達、私を含む孫たちから手向けられた花に囲まれた祖母は、綺麗だった。

 

私は今回、祖母の死にあたって、自宅での看取りについて調べ、下記の記事はとても参考になった。

 

Q 家族を自宅で看取るには? : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

 

これから近い将来必ずやってくる親の死。

そして、自分の死。

どのように迎えたいのか、きちんと話し合い準備し、出来る限り後悔の無いようにしたいと思う。